【読書感想文】ビッグモーターと人間魚雷とにゃんこ先生

Last Updated:2023/08/21(月)
#読書感想文

注意 宮崎駿の「君たちはどう生きるか」と上原隆の「君たちはどう生きるかの哲学」のネタバレを含みます。

夏休みは毎日図書館に通うんだにゃ

8月15日(火)は、台風で図書館は休みだにゃ。8月12日(土)の夜に帰省して以来、日曜日、月曜日と図書館に通っているにゃ。

図書館では本を読んだり、英語の勉強をしたりして過ごしているにゃ。

哲学の本を読んだんだにゃ

哲学の本を読んだきっかけ

上原隆の「君たちはどう生きるかの哲学」という哲学の本を読んだにゃ。宮崎駿の「君たちはどう生きるか」で消化不良を起こして、「君たちはどう生きるか」についての納得のいく解釈を求めたのがこの本を手に取った理由。

図書館に設置値されている検索システムで「君たちはどう生きるか」で検索したらこの本しか売れ残っていなかったというのが本当の理由なんだにゃ。

「君たちはどう生きるか」の哲学について

本の作者について

「君たちはどう生きるかの哲学」の作者、上原隆様は元々映画製作を夢見ていたがその夢はかなわず、金銭的にも人生が行き詰まる中で、鶴見俊輔という哲学者との交流の中で救いを見出し、自立したコラム作家になる。作家になるまでに鶴見様から何度も支援を頂いていて鶴見俊輔を心から崇拝しているコラムニストだにゃ。

だから、夢見ていた現実と今が違っていて、今の自分の生き方に満足していない人、状況打破のヒントを探している人、「君たちはどう生きるか」を見てしまうような人は、同様な悩み持っていた上原隆様の考え方や実践から、生きる上でのヒントは少なからず得られるかも。

上原隆様の代表作は「友がみな我よりえらく見える日は」があるにゃ。Amazonのコメントだけ読んでも、この作者の人となりを垣間見ることができるにゃ。
ホームレス同然の生活を送る芥川賞作家、五階から墜落し両目を失明した市役所職員……人は劣等感に苛まれ深く傷ついたとき、どう自尊心をとりもどすのか。心があたたかくなるノンフィクション。
出典:友がみな我よりえらく見える日は

本の内容について

「君たちはどう生きるかの哲学」には「君たちはどう生きるか」と哲学を結び付けた哲学者の鶴見俊輔はスゴイといった、鶴見様への賛辞が「君たちはどう生きるか」の各章のタイトルをお題にして書かれているにゃ。

「君たちはどう生きるか」の各章毎に鶴見様の解釈を考えたり、自分自身の体験談や感想を淡々と並べている長めの感想文という感じなんだにゃ。感想文の書き方の参考にはなると思うし、「君たちはどう生きるか」一つの作品を通じての気づきが増えるにゃ。

現代で言えば、YouTubeでのエヴァンゲリオン考察をしているオタキング岡田斗司夫の解説動画を見ながら、さらにオタキングと自分自身の交流を振り返って、確かにそういうことだ、といった解釈を加えているにゃ。

だから、胃袋が4つある牛の消化のように「君たちはどう生きるか」をしっかりと消化分解することができるにゃ。とくに、この本ではプラグマティズムという哲学を用いて、この本が持つ栄養素を吸収しようとしているにゃ。

この本を読んで唯一感動したのは、上原隆様から鶴見俊輔様への感謝を述べている「あとがき」の部分だったにゃ。

鶴見俊輔様は、晩年、脳と神経の病気で、本を読むこと意外の力を失ったにゃ。字を書くことができにゃい。話すことができにゃい。上原様は以前から自分が刊行した本を鶴見様に送って感想を聞くことが習慣になっていたにゃ。

病気になった鶴見様は話すことも書くこともできないので感想をお聞きすることはもう叶わなくなったにゃ。それでも、本を刊行したときの儀式のように上原様は鶴見様に自分の本を送ったゃ。

すると予想に反して、鶴見様は上原隆様の本を読んで手紙を添えて感想を送り返してきたにゃ。手紙は鶴見様の奥様からで、鶴見様は脳の病気でもう殆ど何もできなくなってしまったけど、上原様の本だけは熱心にお読みになり、感想を伝えたいとのことでその感想文を添えたという内容だにゃ。添えられた感想文は、文字はミミズが這ったようなただの波線になっていて判読ができないものだったにゃ。

しかし、上原様はその判読不能の波線の中から鶴見様のメッセージを読み取ったんだにゃ。「おもしろかったよ」と。

書いたり話したりできなくなる脳の病気は、スマホで言えば表示ディスプレイとスピーカーの接触不良のようなもで、物理的にアウトプットは不可能だにゃ。いくらスマホのCPUやメモリやマイクが健全でも、アウトプット機能を消失していては、アウトプットは不可能なんだにゃ。

それでも、感想文を書いた鶴見様と、それを読んだ上原様の関係性に熱いものを感じるんだにゃ。

「おもしろかったよ」と認めてもらえるものを書くためには、徹底した取材や論理構成、そして独自の視点が必要だにゃ。

鶴見俊輔とは?

鶴見俊輔は「君たちはどう生きるか」は哲学書だと評したことで今でも有名だにゃ。鶴見俊輔様はアメリカのハーバード大学留学中に戦争がはじまり、アメリカでは敵国国民として捕らえられて、交換船という日本在住のアメリカ留学生とアメリカ在住の日本留学生を交換する制度で日本に帰還しているにゃ。アメリカの思想を持ちながら、日本軍海軍での経験を持つ異例の哲学者だにゃ。

日本兵のとして敵を殺さなければならなくなるかもしれない、人を殺すぐらいなら自分が死んだ方がましだと考えているが、いざ自分がその決断を迫られたときに本当に自分は死ねるだろうかという悩みを哲学の原点に持つんだにゃ。

幸い、鶴見俊輔様は人を殺すことなく終戦を迎える。

「君たちはどう生きるかの哲学」を読んだにゃんこ先生に起きた変化

「君たちはどう生きるかの哲学」を読んだことで、後述の「プラグマティズム」という哲学で、物事を考えることができるようになったにゃ。

「プラグマティズム」という言葉に関して、 「君たちはどう生きるかの哲学」で知って、より詳しくはYouTube動画で見たにゃ。


この本を読む前ににゃんこ先生には社畜サラリーマンとしての不満があったにゃ。読了後もその不満が無くなったわけではないけど、その不満への向き合い方というか、不満の捉え方に変化があったにゃ。

にゃーの最大の不満は、会社の上層部の一部の幹部の無能さや部下との接し方だにゃ、そしてなによりも、一部の幹部からのにゃーへの低評価にあるにゃ。何年も何年もずっと評価が低く、給料が低いままだにゃ。

給料がずっと低い問題は日本全体の問題の気もするけど、単に給料が安価だからと嘆いているわけじゃにゃい。

会社全体として給与が低いならともかく、今の会社ではほぼ一部の幹部の主観だけで昇格が決まっているんだにゃ。能力で人格の優れた幹部の配下、つまり当たっている同期の多くはその優れた幹部の元でつぎつぎに昇格して、どんどんと給料があがっているにゃ。

その傍らで、人格的に全く尊敬できないハズレを引き当てたにゃんこ先生は、これまで一度も昇格が無く、人事評価制度が個人の主観のみの会社ではモチベーションが保てないと毎日悲観しているにゃ。

にゃんは虐げられた猫なんだにゃ。

虐げられた状態で絶望的な状況なんだにゃ。そういう状況に不満があるんだにゃ。

にゃん自身としては人一倍の努力をして成果を出しているけど、昇格・昇給には関係がにゃい。昇格・昇給の基準は担当している幹部の主観が全てにゃのだから。

たとえ、実力も人望も人以下でもその幹部に付き従えば、もしかしたら昇格の可能性もあるのかもしれにゃい。

そんな、尊敬できな無能幹部の下で働く苦しみというのは、どの時代でも万国共通の苦しみだにゃ。「君たちはどう生きるか」が書かれた時代は、日本政府自体がそんなハズレだったにゃ。今この令和の時代でもビッグモーターでのパワハラと数々の不正が発覚しているにゃ。

サラリーマンは理不尽に耐えるのが仕事とも言われるほど、サラリーマンと理不尽はセット商品のように一体だにゃ。戦争で特攻して死んでいった日本兵にしても、令和の今でも日々高収入で釣られ踊らせれては、次々に使い捨てられているビッグモーターの元社員にも、そして、この感想文を書いているにゃんこ先生にも理不尽はくっついているんだにゃ。 猫にはしっぽがついているように、サラリーマンには理不尽がくっついているんだにゃ。

理不尽。

絶望的な状況から目を背けて生きる、あるいは、ゼロ戦や人間魚雷に詰め込まれて特攻自爆した日本兵のように、その理不尽の存在すら知らずに生きる、あるいは死にゆくことも、それを肯定的に捉えれば、そのための生き方も肯定的にとらえることができるにゃ。

そうやって、結果の良し悪しでプロセスの良し悪しを判断する考え方がプラグマティズムという考え方だにゃ。

例えば、自動車修理で1台14万円の粗利達成といった狂った評価基準を評価基準に持つビッグモーターでは、軍手にゴルフボール詰め込んでお客様の車を効率的に破壊することはプラグマティズム的には正しいと言えるにゃ。

え?侵略戦争のための特攻自爆や、売上水増しのためのビッグモーター自爆が正しいと言えるにょ?ものの見方、捉え方として、そういう行為が正しいとも言えるということで、プラグマティズムでは正しい結果に至れば、正しい考えや行動だと捉えるんだにゃ。

特攻攻撃を強いた帝国主義の日本軍も、パワハラやトチ狂ったノルマ設定のビッグモーターの暴挙も長くは続いていにゃい。より長い時間軸と大きな視野で見ると、そのやり方は間違っていたことになるにゃ。

敵の艦隊にかすり傷を与えたいだけなら、ゼロ戦や人間魚雷による玉砕特攻は効果があっただろうし、自動車修理の1台あたりの粗利を14万円にするためには軍手ゴルフボール攻撃も効果があったと思うにゃ。ちっぽけなより短い時間軸と狭い視点で見て、その効果だけを狙っていたのならそれは正解だにゃ。

最終的に何を良しとするかで、良い行動が変わってくるにゃ。

だから、よりよく生きるうえで「自分はどう生きるか」を考えることは重要だにゃ。

日々の努力と思いやりを積み上げ、築きあげた真の実力や人望から、法令遵守の正当な方法で成果を出し周囲を幸せにして、その報酬として給与価格があがっていく。

もし、自分のファンタジーでそういった状況を良しとするなら、そういう状況に至るように今すぐ行動を変えなければいけにゃい。

このままではいけにゃいとは思っていたけど、もう本当に行動しなければという思いになって、具体的には転職サイトにエントリーしたにゃ。

以上、感想文。

以下は、駄文だにゃ。

哲学書を読む狙い

後付けの理由だけど、哲学書を読もうと思った理由はパヤオ(宮崎駿のこと)のクソ映画が消化不良だったこと以外にも、他に2つあるにゃ。

1)哲学書の読書は脳の筋トレ
哲学書は難しすぎて何が書いてあるのか分かんにゃい。すぐに眠くなるにゃ。

😪 、ぴ〜、ぷ〜。

その眠気をグッとこらえるんだにゃ。

我慢して、我慢して、眠気を我慢して何行か読むようにするんだにゃ。

筋肉を鍛えるときに重たいダンベルを持ち上げるのと同じように、脳を鍛えるときには哲学書を読むんだにゃ。

真夏の暑い日に、あえてエアコンをつけずに車に乗って、その車内の猛烈な暑さに10分ぐらい耐えていると、車外に出たときには真夏の外気がヒヤリと涼しく感じるにゃ。

筋トレで筋肉が大きくなったり、夏の車内で猛烈な暑さに耐えると暑いはずの外気が涼しく感じるの同じ現象が、哲学書を読んだあとの頭脳でも起こるにゃ。

哲学書を

「わかんにゃい、わかんにゃい、わかんにゃい🥺」

と分からないなりにも読んだあとに、一般的な本を読むと、分からなかった本が少し読める気分になるんだにゃ。

だから、夏休みは図書館で1日1冊は普段は読まないような本を読むことにするなんだにゃ。残念ながら、今日は台風の影響で交通機関も図書館も全部お休みなんだにゃ。

だから、代わりに感想文を書くんだにゃ。

2)哲学書は物の見方を変えてくれる
哲学は人生の中で起こる様々な物事の見方を与えてくれる立体眼鏡のような存在だにゃ。立体眼鏡の比喩が分かりづらいかもですが、どんなにすごい3D映像の映画もこの立体眼鏡がないとそのすごさが伝わらにゃいという経験はあるはずだにゃ。

宮崎駿の「君たちはどう生きるか」が不可解で理解不能という状態は、3D作品の映画なのに立体眼鏡をつけていない状態、あるいは、3D作品だからと赤と青のセロハンで自前で作ったまがい物の眼鏡で見ている状態だと同じだと思うにゃ。

この映画に必要な立体眼鏡を装着しないと、この映画を楽しむことができにゃ。その立体眼鏡の役割を果たしてくれるのが「哲学」だにゃ。

映画だけではにゃい、人生においても、自分かかけている立体眼鏡によって世界の見え方、人生の捉え方、問題解決のための成功の筋道が変わって見えるにゃ。

哲学書の読書に救いをもとめて

にゃんには今、人生では絶望的な状況があるにゃ。

その絶望をどのように解釈して、その絶望と共にどう生きていけばいいのか迷っているにゃ。どの方向に歩いていけば出口にたどり着けるのか、文字通り、暗中模索しているんだにゃ。

暗闇を進ための道具を探しているにゃ。

出口までは這いつくばってでも辿り着きたいにゃ。

哲学よ、この闇を割く一筋の光となれ。

そういう思いで哲学を勉強するんだにゃ。

上原隆の「君たちはどう生きるかの哲学」とは

上原隆の「君たちはどう生きるかの哲学」は便乗商法の便乗商法のような本だにゃ。

原作の吉野 源三郎氏の児童書に対して、まず最初に鶴見俊輔が「これは哲学書だ。」と解釈することで便乗したんだにゃ。そして、さらにその鶴見俊輔の解釈を上原隆が再解釈するという便乗作品だにゃ。

吉野 源三郎氏に鶴見俊輔氏が乗っかり、その鶴見氏に、さらに上原隆が乗っているという状態の本だにゃ。

プラグマティズム

この上原隆の「君たちはどう生きるかの哲学」という本では、繰り返しプラグマティズムという哲学用語が出てくるにゃ。プラグマティズムとはアメリカで哲学を学んだ鶴見俊輔様が日本に紹介した考え方だにゃ。

プラグマティズムとは、ボディビルダーの精神はその体に表れているといった考え方だにゃ。

その精神がどういったものかを測り知ることは、その精神によって効果から分かるという考え方だにゃ。鍛え抜かれた体を見れば、その体に宿る精神は相応のものだと知ることができるにゃ。

プラグマティズムについてAIに聞いてみた

より客観的にプラグマティズムについて理解を高めるためにAIにも聞いてみたにゃ。

Q.プログマティズムとは。それを描いた名作とは?

プログマティズム(Pragmatism)は、哲学的な立場や方法論の一つであり、特にアメリカの哲学者たちによって発展させられました。プログマティズムの中心的なアイデアは、真理や意味に関する問題を実用的な観点から捉え、思考や行動の結果に焦点を当てることです。プログマティストは、ある考えや理論の価値はその実際の効果や実践によって評価されるべきだと考えます。

代表的なプログマティズムの提唱者には、チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce)、ウィリアム・ジェームズ(William James)、ジョン・デューイ(John Dewey)などがいます。彼らは、哲学や知識の問題に対して実用的なアプローチを取り、科学的方法や経験に基づく知識を重視しました。

名作として挙げられるのは、ウィリアム・ジェームズの著書『意識の諸相』("The Varieties of Religious Experience")やジョン・デューイの著書『民主主義と教育』("Democracy and Education")などがあります。これらの著作は、プログマティズムの考え方を詳しく探求し、実生活における実用的なアプローチの重要性を強調しています。

出典:ChatGPT
説明からして、眠くなるにゃ😪。

わかんにゃい言葉だらけだもん。

だけど、その眠気に耐えて1行でも読み進むことで頭が少し良くなるんだにゃ。なので、名作と呼ばれている哲学書は図書館で手に取って読んでみるんだにゃ。

図書館で探すために、Amazonで調べて哲学の名著をメモっておくんだにゃ。そのための事前調査で分かったけど、ウィリアム・ジェームズの名著をAIは間違っているにゃ。。

ウィリアム・ジェームズの名著は、「意識の諸相」ではなくて「プラグマティズム」なんだにゃ。

プラグマティズム

ウィリアム・ジェームズの著書「プラグマティズム」は、1910年に刊行されているにゃ。



民主主義と教育

ジョン・デューイの著書「民主主義と教育」は、1916年に発表されているにゃ。作者のジョン・デューイは親日家で1919年から1921年にかけて日本と中国に来ているとWikiにはあるにゃ。





プラグマティズムという考え方が生まれた時代背景

いずれにしても、プラグマティズムという考え方が生まれたのは、1910年頃だということだにゃ。アメリカでの工業化と都市化の進展期だにゃ。日本での1868年、明治維新以降の雰囲気がアメリカにもあったんだにゃ。

1914年の第一次世界大戦勃発、その25年後の1939年に第二次世界大戦が勃発しているにゃ。

広島原爆は1945年8月6日に投下され、長崎原爆は1945年8月9日に投下されたにゃ。日本の終戦は、1945年8月15日に宣言されたんだにゃ。

「君たちはどう生きるか」の初刊は1937年だにゃ。日本では盧溝橋事件で日中関係が悪化して抗日運動が起きていた時代だにゃ。

日本人の成人男性であれば、赤紙で軍隊に強制的に組み入れられて、戦地で爆発によって手足がバラバラに吹き飛ばされたりしていた時代なんだにゃ。

「君たちはどう生きるか」

じゃにゃい💢。

その本が刊行された時代、日本政府によって、人は戦地に送り込まれて殺されたり、爆風で手足をもがれていたんだにゃ。

兵士であればゼロ戦や人間魚雷に詰め込まれて、特攻で殺されちゃう。

庶民であれば、焼夷弾や原爆の火力で、焼かれて殺されちゃう。

そこに個人の意思なんてにゃい。

その時代に日本の庶民として生まれれば、人生とは生きるか死ぬか半分半分の確率問題しかにゃくなる。

お盆の季節になるとNHKアーカイブやNHKスペシャルでは戦争に人生を翻弄された人が紹介されるにゃ。戦争に人生を翻弄された人はその時代に先進国に生まれたすべての人かもしれにゃい。

そこに個人の意思で抗うことのできることなんてにゃい。

戦争は誰も止められない濁流のようなものだにゃ。自然とやむか行き過ぎるのを待つしかにゃい。「君たちはどう生きるか」という時代では決してにゃい。その時代の事実としては「君たちはどのような濁流に翻弄されるのか」というのが適切な問いだにゃ。

実際、大多数が望まない戦争が、大多数のその意志と関係なく世界大戦が起こり、世界全体で約5,000万人もの人が殺されたにゃ。

構造的な問題

戦争で大量に人が死ぬ背景には構造的な問題があるにゃ。

この時の時代の「構造」によって人が大量に死んだにゃ。その「構造」の仕組みは多くの人の命が奪われるようにできていて、そこにその「構造」がある限り、そこで人が死ぬのは至極当然の結果なんだにゃ。

戦争を望んでいる人なんているとか、いないとか、そういう人の意志の問題ではなくその「構造」によって人が死んでいるにすぎにゃい。

戦争を望んでいる人

戦争を望んでいる人とは軍需産業の資本家だにゃ。人口ピラミッドの頂点に君臨するそういったごく一部の資本家が貴族として国会を、つまりは、立法権を掌握しているという構造が世界戦争を起こす構造だにゃ。

戦争がはじまり、総動員法が施行されれば、文字通り軍需産業への総動員となり、労働者はほぼ無償で国の役務として酷使されゼロ戦を作ったり、ゼロ戦を壊すために特攻したりと軍需産業の奴隷となるにゃ。

一部の金持ちが支配する世界とはそういった世界だにゃ。

帝国主義だにゃ。

弱い人たちを征服して、植民地化して、利益を吸い上げ弱い人たちはさらに弱くなり、強い人たちはさらに強大化していく。

戦争を望んでいる人の元でしか働けない人

令和の世では、カラオケ屋さん、お花屋さん、車屋さん、その部品を作ったり、その部品を作る機械を作ったり、保険を売ったり、壊れた車を直したり、そういう仕事で疲れた人を治療したり、いろんなお仕事があるにゃ。

戦争が起きた昭和の世では、そういったお仕事がにゃい。

世界中の資本家が競い合って植民地支配を急いでいた時代で、一つの地域を征服すればその地域の王のようになり莫大な利益を得られる巨額インセンティブを狙って世界侵略が進んだにゃ。それは庶民の意志ではなく、資本家の野望としてだにゃ。

ビッグモーター崩壊と帝国主義の崩壊は同じ

この構造は、昨今のビッグモーター問題と同じだにゃ。

ビッグモーターが一気に店舗数を増やす裏では、各店舗では保険会社やお客様をカモにして食い物にしたり、街路樹を故意に枯らすという非道が横行していったにゃ。他社より抜きに出るには、他社より多く稼がなきゃいけない。他社に技術や仕組みで勝てない場合は、不正をやるしかにゃい。

ビッグモーターのこの構造は帝国主義の国が支配する植民地を求めて、世界を舞台にしのぎを削って戦争に突き進んだ構造と同じなんだにゃ。ビッグモーターが街路樹を根絶やしにするのと、イギリス兵がアメリカ原住民を根絶やしにしたんだにゃ。

もし、働き口がビッグモーターしかなければ、自分の意志とは関係なく詐欺の手口や除草剤を使って卑劣に生きていくことしかできにゃい。ビッグモーターは人殺しまでは命じていないので、日本軍よりはマシだにゃ。

その構造による支配は、その構造がある限り続く

その構造が世界中に蔓延って(はびこって)、その資本である軍需産業自体が生み出した兵器で資本の多くが破壊されたり、資本の操業に必要な労働者を殺しきったりした後で、ようやく戦争は終結しているにゃ。

庶民は一様に戦争なんて望んでなんかいにゃい。世界での覇権を握りたい一部の資本家の野望のみで、戦争が起きているにゃ。この大きな時代のうねりの中では、一人一人の「戦争反対」という意識なんて何の効力も持たないにゃ。

津波には抗えにゃい

津波に向かって、「津波、来るにゃ、シャーっ」と一匹の猫が闘争心を剝き出しにして抗った(あらがった)ところで何の効力も発揮しにゃい。逃げなければ、水死体となるだけ。抗うだけ無駄。無駄というより無謀。津波警報を聞いたら、もう逃げるしかにゃい。津波とはそういうもの。戦争にも、ビッグモーターにも、それぞれ、津波と同じような、どうにも止められないものはあるんだにゃ。

戦争に突き進む日本。もう誰にも止められない中でギリギリの抵抗として書かれたのが「君たちはどう生きるか」という児童書だと思うにゃ。

「君たちはどう生きるか」に書かれていること

「君たちはどう生きるか」で、作者が一番何が言いたかったと聞かれたら、貧困のように自分の力だけではどうしようもない構造的な困難があったとしても、その構造の中で自分がどう生きたいかは自分で決めるべきだということだと思うにゃ。

構造的な問題

主人公の少年、コペル君自身は、家政婦を雇えるほどの富豪の家に生まれて何不自由なく暮らせている一方で、同じ学区の友達タケシは貧乏過ぎて学校に通うことができない。これは、完全に構造的な問題だにゃ。

貧乏な家の猫に生まれる。

金持ちの家の猫に生まれる。

こういった差は、常につきまとうにゃ。

戦争の時代の猫に生まれる。

平和な時代の猫に生まれる。

ウクライナの猫に生まれる。

日本の猫に生まれる。

どれだけ努力しても出世できない猫として生まれる。

何もしなくてもトントン拍子で出世する猫として生まれる。

平穏な猫として生まれる。

シュレーディンガーの思考実験で半死半生となる猫として生まれる。

さまざまな猫がいるけど、一匹の猫では抗うことのできない大きな濁流の中にいて、その状態からは簡単には逃れることはできにゃい。

その猫単体の能力では絶対に回避できにゃい「構造」の一部として猫が存在しているんだにゃ。

それが「絶望」という名の「構造」であった場合でも、やはり一匹の猫ではその構造から抜け出すことはできにゃい。

だったら、「君はどう生きるか」なんて問いかけは、その問いかけ自体がそもそも愚問だにゃ。そんな自分の意志でどうにかなるような問題なんて、所詮はとてもちっぽけな問題だにゃ。

人は、自分の意志ではどうにもならない問題があるから、悩み、苦しみ、絶望するのだにゃ。

にゃーは、かくかくしかじか、このように生きたいのであります。

そう理想の生き方を宣言して、生きられたら苦労しにゃい。

そうできないから、理想と現実の狭間で苦しむのだにゃ。

鬼畜と化した一部のビッグモーター社員

まっとうな人間なら誰しも、保険会社やお客様から金銭を騙し取って生きたいなんて思わにゃい。街の街路樹を枯らすといった発想すらにゃい。でも、複数のビッグモーターでは、それが普通になってしまっている。

客を騙し、街路樹を枯らさないと、副社長から「死刑、死刑、死刑、姫路(に左遷)、姫路(に左遷)、姫路(に左遷)」とLINEで公開処刑される。悪事を働かないことはビッグモーター帝国では非国民扱いなんだにゃ。かくして、当然のごとく、ビッグモーター帝国の庶民は人を欺き、街路樹を枯らすような鬼畜へと変貌を遂げるんだにゃ。

それは戦争中の一部の日本兵と同じだにゃ。

鬼畜母体、つまり、戦争に突き進んだ帝国主義の日本や、詐欺に突き進んだピッグモーターという構造の一部である限り、鬼畜と化すことは避けられにゃい。

鬼滅の刃で鬼舞辻󠄀無惨様の血を分け与えられた人が鬼となるぐらい当然のことだにゃ。

嘘つけ!竈門炭治郎の妹の禰津子はどうなんだよ!

“鬼滅の刃で鬼舞辻󠄀無惨様の血を分け与えられた人が鬼となるぐらい当然”というのは嘘だにゃ。だって、竈門炭治郎の妹の禰津子は人を襲ったり、食べたりしないじゃないか。

日本兵全員が外国人を殺したわけじゃない。ビッグモーター社員も全員がペテン師だとは限らにゃい。

禰津子(ねづこ)を議論に持ち出してはならにゃい

まず、アニメ「鬼滅の刃」の禰津子を議論には持ち出してはダメだにゃ。だって、アニメだもん。アニメにはアニメの世界の法則があって、この現実とは別の時間と空間の話なんだにゃ。

帝国主義の日本兵やビッグモーター社員はやっぱり鬼畜体の一部

「君たちはどう生きるか」を哲学書だと評した哲学者の鶴見俊輔は、戦時の海軍時代に植民地の原住民を殺す係が自分に回ってくるかもしれないという恐怖に苦しんだと言うにゃ。もし、殺し係が回ってきたら自分は自殺すると決めて毒薬を肌身離さず持っていたというにゃ。

結局、終戦によって自分に殺し係が回ってくることがなかったけど、この帝国主義の日本が存在し続ける以上、たとえ自分が自殺しても死体の数が一つ増えるだけで、結局、誰か他の日本兵が代わりに原住民を殺すことになると哲学者らしく考えていたそうだにゃ。

プラグマティズムという哲学では、結果として現れる効果が重要視される

プラグマティズムという哲学では、結果として現れる効果が重要視されるにゃ。

望んだ効果が出れば、その効果を得るための行動は正しかったと考えるのがプラグマティズムという考え方だにゃ。

この考え方に立つと、日本兵として植民地に駐留している時に、原住民を殺す係が回ってきたらどうするべきかにゃ?

殺すことになるにゃ。

なぜなら、自分が殺さなくても他の誰かが殺すことになるから。自分が殺さず、自分が自殺をすれば、死体が一つ増える。死体を減らしたければ、自分が殺すしかにゃい。

ビッグモーターでも同じだにゃ。

大前提としてお客様を騙したくにゃい。でも、自分が騙さないと、他のもっと性根の腐った人が平然と呼吸するように詐欺をやって役員にまで出世してしまう。そうなると会社が腐ってしまう。その結局、みんなが破滅する。だったら、最初から自分が率先してお客様を騙した方がいい、ビッグモーターでの詐欺の戦いとは、負けられない戦いなのだにゃん。

このように鬼畜母体の一部である以上、鬼畜な行為を止めることができにゃい。

プラグマティズムって帝国主義の考えなの?

日本帝国やビッグモーターとの相性がいいように読めたけど、プラグマティズムって帝国主義の考えなの?

ちがうにゃ。

プラグマティズムは帝国主義でも通用するし、他のどこでも通用するにゃ。

植民地支配を進める日本軍でのプラグマティズムでは、どうせ、日本が殺(や)らなければ、ドイツ帝国やソ連が殺(や)る。ゆくゆくは日本自身が殺(や)られる、そういう結果よりはマシだから自分が率先して植民地支配を推進する。

7年連続日本一を目指すビッグモーターでのプラグマティズムでは、保険金の水増し行為は、バレなきゃお客様に直接的な迷惑がおよばない。水増し請求をすれば、副社長のパワハラの矛先からも逃れられるうえに、自分の収入も増える、いいことずくめだから、保険詐欺を推進する。

このようにプラグマティズムでは、思考や行動の良し悪しを、その結果生じる効果で判断するにゃ。

帝国主義の頃の日本軍の例や、ビッグモーターの例のように、プラグマティズムで考えると悪い歯車がグングン回るにゃ。
3 プラグマティズムで世界は滅亡する?
プラグマティズムによって街路樹を枯らすビッグモーターの悪しき歯車がグングン回ってしまうのであれば、街路樹にとってバッドニュースだにゃ。自動車産業としても、自動車購入から始まるカーライフを通じてビッグモーターを潤してしまい、日本という国自体が枯れてしまうのではにゃいの?

ちがうにゃ。

プラグマティズムによって滅びるのはビッグモーターのほうだにゃ。その証左として、すでに帝国主義はプラグマティズムによって打破されているにゃ。

プラグマティズムは諸刃の刃

プラグマティズムを帝国主義に当てはめると、やられる前に、やるしかにゃい、全員悪役の北野武監督のバイオレンス映画のようになり、血で血を洗う苛烈な抗争となり、最終的には、正義面したイギリスに漁夫の利を持っていかれることににゃる。

太平洋戦争では日本が鉄砲玉となり玉砕し、最終的には、中国の主要都市である上海、香港はイギリス支配となり、日本の北方領土はソ連に持っていかれることになったにゃ。沖縄の一部の土地は今でもアメリカ軍が占拠しているにゃ。

この敗戦後の状況を満州事変にはじまる日本帝国の進撃の結果だとすれば、プラグマティズムで見れば、帝国主義はまちがいだったと結論付けられるにゃ。帝国主義では、結果的に多くの国民の命を失い、領土も中国との友好関係も失ったのだから。

プラグマティズムの考え方で、その行動の行きつく結果を考えれば、その行動の良し悪しは判断がつくにゃ。

プラグマティズム的思考を持ってさえいれば、ビッグモーターが長く栄えるためにやるべきことは保険金詐欺や、街路樹の伐採ではないと秒で気づくにゃ。

もし不正が明るみに出るようなことがあれば、即刻その日から、巨額の広告費や、環境整備などの努力で積み上げてきたビッグモーターのブランドイメージが全て反転してしまうにゃ。

ビッグモーター物語の最終話

プラグマティズムで考えるということは、その物語の最終話を考えることに近いにゃ。その行動を続けたあとの最終話を想像することで、その行動をやるべきか、やめるべきかわかる。

例えば、ビッグモーター物語の最終話はこうなるにゃ。立派で大きな看板、煌々と輝く街灯、環境整備された美しい店舗、そして、テレビやラジオでの広告。巧みに客を誘い込み、事業を急拡大したビッグモーター。

しかし、不当な降格処分や左遷で辱めを受けた社員の怒りがジワジワとSNSを伝って世の中に染み出し、ビッグモーターの中身が外に見えてしまった。実際のビッグモーターは食虫植物のような存在だった。大きな胃袋の中に客を絡めとって、チュウチュウと養分を吸ってその看板の面積だけがビッグになっていたのだった。

ゴーレム神話とビッグモーター

ユダヤ教の神話ではドロで作られた巨人「ゴーレム」が登場するんだにゃ。ゴーレムは今で言えばガンダムのような強力な存在だにゃ。でもガンダムのように超合金で作られているのではなく材料はドロ。ゴーレムはあくまでドロ人形なんだにゃ。

砂の粒を引き付けているのは、言葉だにゃ。ゴーレムの額には「真理」を表すemethという言葉が書かれていて、この言葉の力がゴーレムの力の源だにゃ。ゴーレムはしばらくの間、その大きな力で人々に恩恵を与え続けていたにゃ。

しかし、いつしか「真理」を忘れ、ゴーレムの力をただ単に便利なものとして、時には個人の立身出世のために使う人が出はじめ、いつしか、ゴーレムの額の文字emethからeが消えていき「死」を意味するmethへと変わり、ゴーレムは形作る力を失うとすぐに砂粒となり風に吹かれて消え去ってしまったのだにゃ。

宮崎駿監督のジブリ映画「天空の城 ラピュタ」ではムスカがラピュタの力をわが物にしようと企んだ結果、ラピュタは完全に崩壊してしまったりしているにゃ。

ビッグモーターの話も同じなんだにゃ。

カーライフをサポートしてお客様の生活を豊かにするんだにゃ!

そういった「真理」を追求してお客様がご来店される時間だけ一生懸命お客様を笑顔にすることに汗を流せば、必ず、

「やっぱ、車買うならビッグやわ」

という声が世界に広がり、自ずとビッグになっていったと思うにゃ。

でも現実には、企業が拡大することは難しいことだにゃ。

急拡大するなかで、立派な真理も街路樹とともに枯れ果て、副社長自らもLINEを使ってビッグモーターを形作る重要な社員に向かって「死刑」を連呼したりしてトチ狂ってしまう状態に陥ってしまったにゃ。

経営方針すら社長の言葉ではなかったとXでは話題になっているにゃ。

部下の点数が良くないのは、みんな上司のせいです(笑)

「(笑)」というのが労働者をナメているんだにゃ。部下を下に見た考え方なんだにゃ。その低評価で苦しむ部下の気持ちなんて考えない、帝国主義の日本の考え方だにゃ。

『評価は上司の独断と偏見でつけて良いというルールになっています』という考え方は、パワハラや無理なノルマ設定、結果的には重大な不正を生み出すにゃ。

実際に、ビッグモーターに経営計画手帳を売っていたとされる株式会社武蔵野というコンサルは沈没した知床遊覧船の経営にも関与していたんだにゃ。ともに重大な問題を引き起こしているんだにゃ。

プラグマティズムで考えると、数々の不正を起こしてきたビッグモーターや、多くの犠牲を出した知床遊覧船は、その経営に問題があったと言えるにゃ。適当に買ってきた、他人が作った経営計画書でその会社が回るわけがにゃい。

ビッグモーターで言えば、社長が怒っていたのはゴルフボールで車を凹ますことが、「ゴルフを愛する人への冒涜」だからであって、車の修理をお願いしているお客様についての謝罪は一切にゃい。

自分は知らなかった、社員にはゴルフを愛する人を冒涜する本当にとんでもない悪党がいるといったズレた責任逃れをする社長は、ある意味でビッグだけど全国展開する大企業の社長の器ではにゃい。

君のそのマインドと行動を結果、最終話でどうなる?
そんな自問をするべきだにゃ。

ビッグモーターの場合は、社長は自分の会社で何が起きているのかも分からずゴルフ三昧。その結果、最終話で自分の会社で行われていた悪事を天地神明に誓って全く知らなかったというポンコツ管理者ぶりを発揮し、見事に大企業を窮地に陥れることになっているんだにゃ。

自社の哲学を持たない経営計画書を朝礼で読み上げるビッグモーター社員は完全に支配されてしまっているにゃ。その事業計画書に書かれている内容は、社員の一切の生殺与奪の権はバカ息子に与えるといった内容だにゃ。社員は毎朝、その事業計画書に合意し、自らビッグモーターの構造の一部として、文字通りビッグりする行動で悪のモーターを回しているんだにゃ。

構造の支配からは逃れるには

帝国主義で戦争に突き進む状況というのは津波の濁流のようなので、一匹の猫で抗うことができる類の問題ではにゃい。

「戦争反対!シャーッ!」

と一匹の猫が全力で反対しても、その構造の中にいてはどうにもならにゃい。

全力で逃げるしかにゃい

一度構造に支配されたら、その構造が破壊されるなどしないと、もうその構造からは抜け出すことができにゃい。

支配されたら、もう手遅れだにゃ。

支配されそうになったら全力Bダッシュで逃げるんだにゃ!

でも、逃走は、闘争と同じ。簡単じゃにゃい。

ガス室で殺される運命を変えた人の例

逃れようのない構造の例に、アウシュビッツでの大虐殺があるにゃ。ユダヤ人というだけで殺されるという残虐な構造がナチス党が政権を握ったドイツにあったにゃ。

そういったドイツに住むユダヤ人の一人にアインシュタインがいたにゃ。

アインシュタインは、ナチスが政権をとるとすぐにドイツからアメリカに亡命しているにゃ。E=mc^2という莫大なエネルギーを生み出す頭脳を持っていても、ナチス支配下のドイツではユダヤ人は生きることができにゃい。

アインシュタインの場合、それまでの科学での実績が盾となった。

いくら亡命を望んでも引受先が無ければ、それは叶わにゃい。

例えば、北朝鮮に住んでいる人が誰もが亡命できるわけじゃにゃい。多分、亡命は転職よりは難しいはずだにゃ。簡単に逃げることができれば、独裁国家なんて存在しえにゃい。簡単に逃げることができない構造になっているから、独裁国家がいつまでも君臨し続けるんだにゃ。構造の支配から逃れることは簡単ではにゃい。

もし、自分の正義を貫きとおしたいなら、他国から「是非ともうちに亡命してください。」といった申し出があるようなレベルまで自分を高めておかなきゃ。

アインシュタインの亡命の話はともかくとして、ビッグモーターの社員だったら、せめてガリバーやカーセブンからヘッドハンティングされるぐらいのことがあって本物の営業だったりエンジニアだったりするのではにゃいかな。

まとめ

プラグマティズムという哲学で考えると、にゃんこ先生は今の会社は辞めなければならないという結論に至るにゃ。

にゃんこ先生が、もとめる生き方は、下記だにゃ。

日々の努力と思いやりを積み上げ、築きあげた真の実力や人望から、法令遵守の正当な方法で成果を出し周囲を幸せにして、その報酬として給与価格があがっていく。

ビッグモーターでの1台あたりの自動車修理での平均粗利14万円というノルマの達成を求める幹部は誰の目から見てもおかしい。

でも、その中で働くならば生殺与奪の権をそのトチ狂った幹部に握らせなきゃいけにゃい。

客観的に見ると、「ビッグモーター社員はみんなアホか?」と思えるにゃ。だけど、第二次世界大戦中にゼロ戦や人間魚雷に詰め込まれた日本兵と同様に、そううることに「万歳!」と喜んでいる人々になのだから、その価値を認めるべきだにゃ。

そんな生き方は間違っているとか、君たちは騙されているとか、そんな説得に意味はにゃい。

大変興味深いことに、この記事で大分批判してきた帝国主義時代の日本軍やビッグモーターと、まったく同じ構造の中ににゃんこ先生も勤めているんだにゃ。そしてまさに今も、その理不尽さに悩んでいるんだにゃ。

道は選べるにゃ。道は大きく2つある。

今の会社で社畜万歳!と言って、自爆特攻のためにゼロ戦や人間魚雷に詰め込まれるような道。

「アホくっさ、なんでろくに働きもしない無能な幹部の下で貴重な命の火を燃やさなあかんねん、やってられっか、カス!」

と心の中で言い捨て、理想郷を求めて旅立つ道。

ちがうにゃ。

もっと、人生をカメラを引いて見つめてみると、別の道も見えてくるにゃ。

ビッグモーターと同じく生殺与奪権を幹部に奪われていて、ビッグモーターとは桁違いに給料の安い会社で働かなきゃいけないというにゃんこ先生の無能ぶりが今の状況の要因だにゃ。

ナチス支配下のドイツ在住だったユダヤ人のアインシュタインがアメリカに亡命したように、自分の生き方ができる場所に移動すればいいだけだにゃ。

小さなツバメちゃんだって、9月になって餌が少なくなれば最長でオーストラリアまで渡り鳥として移動するんだにゃ。

誰かに寄りかからなくても一人で生きる力を身につけるまでは、今の会社で頑張るしかにゃい。水面下で着々と脱出の準備を整えるんだにゃ。

いずれにしても、今のままじゃダメ。行動しなきゃ。その思いをしっかりと固めるために、この夏休みはこの長文を書いたにゃ。